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交響曲第5番(こうきょうきょくだいごばん,Symfoni Nr.5,op.50、FS.97)は、カール・ニールセンの作曲した6つの交響曲の5番目のものである。この作品は1922年1月15日に完成し、1922年の1月24日にニールセン自身の指揮により初演された。ニールセンの6つの交響曲の中で副題のないのはこの作品を含めて2つだけであり、通常の4楽章の代わりに2つの楽章しかないのはこの作品だけである。 この作品は、第4番に比べて全く無駄がなく高い独創性と驚くほどの質量感で有名であり、これはこの作品を古典派やロマン派の交響曲とは異なったものにしている。〔シンプソン、82ページ〕 作曲家であり、ニールセンの専門家でもあるロバート・シンプソンがプログラムに書いた文章によれば、音楽学者のデリック・クックはこの交響曲第5番を「最も偉大な20世紀の交響曲」と呼ぶことさえしている。〔 ファニング、2ページと105ページ。しかし、この言葉は出版されたクックの著作のどこにもない。ロバート・シンプソンは、この言葉が彼との会話の中で何回か言われたのを覚えている。〕 また、シンプソン自身はこの交響曲を「これは人間の闘争を表している。」と述べている。 == 歴史 == === 作曲 === ニールセンが何にインスピレーションを受けて交響曲第5番を書きはじめたか、いつ彼が書き始めたかを示す書類はないが、一般的にフムレベックで1921年の冬から春にかけて書かれたと考えられている。彼は、1921年2月17日と3月23日の日付のあるエミール・テルマニーへの二通の手紙の中で交響曲第5番の作曲は遅々としていると書いている。しかし、妻のアンネ・マリー・カール・ニールセンへの3月4日の手紙では、第1楽章が完成したと書いている。そして彼は、3月31日には、第1楽章の清書を終え、仕事を中断して休息すると妻に書いている。〔 ファニング、79ページ 〕 ニールセンは、その年の初夏にスカーゲンにある彼の別荘に滞在した。彼は、後に7月の終わりにダムガードの友人の家に移り、合唱曲『フューンの春』(Op.42,FS.96)を作曲した。秋になって初めて、ヨーテボリでの指揮者の仕事の余暇を交響曲第5番の作曲にあてた。〔 フェドルソー、13ページ。 〕 9月3日に彼は妻に「今、私は中断した交響曲の作曲に取り掛かっている」と手紙を書いている。 ニールセンは、スコアの日付によれば1922年の1月15日に、この交響曲のすべての作曲を終えた。彼はこの新しい交響曲を友人のカール・ヨハン・ミヒャエルソンとその妻ヴェラに捧げている。初演はほんの9日後に、コペンハーゲンの音楽協会の音楽堂で、作曲家自身の指揮により行われた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「交響曲第5番 (ニールセン)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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